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  • le Corbusier and the occult
    [ 2011-02-18 23:40 ]
  • memo
    [ 2011-02-18 18:08 ]
  • カイエもどき
    [ 2011-02-17 21:55 ]
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    [ 2011-01-14 01:13 ]
  • のこり18日
    [ 2011-01-14 00:32 ]
  • 定義
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  • 構想数題
    [ 2010-10-23 21:31 ]
  • これは言ってよさそうな経験則
    [ 2010-09-30 16:02 ]
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  • 「タイトルは文章を書いている途中にこそ良いものが思い浮か
    [ 2010-09-15 00:30 ]
le Corbusier and the occult
大冊であり、現物史料への当たりかたはかなり執拗。また語りがおおよそ時系列に沿っているので、若年のコルビュジエの事績を辿りたい場合はよい参照源になりそうではある。
ただし「コルビュジエとオカルト」という問題意識は発想が先走りすぎ、結論のための史料集めになっている感が強い。しかも裏にあるのは、「オカルト」と言っても大雑把にフリーメーソン思想の影響のことのよう。同時代の一般的フリーメーソン的傾向の記述は細かいが、そことコルビュジエの建築思想の本質的な部分との交渉はほぼないと言ってよい。もとよりこうした人間心理と表現をまたぐ微妙な問題は、キー概念にたいする著者の定見が分析の方法論とその質にじかに反映されるものである。ことテーマが「オカルト」であり、論者自身がその語をタイトルに冠し、ある意味でその語の衝撃を「えさ」としているのだ。それを「えさ」と感じさせない著者のテーマへの洞察がほしかった。
上記に関連して、全体テーマと方法論をしめすための序が、だからほんとうは欠かせなかった。同書はバートレット校先輩のレイナー・バンハム『第一機械時代の理論とデザイン』に向けてのアンサー・ブックだと断られているが、
Le Corbusier's book on architecture...
was to prove to be one of the most
influential, widely read and least
understood of all the architectural
writings of the twentieth century...
にたいする解法を与える書としては、これは認められない。

あるいは個人的な研究興味からすれば、コルビュジエの「精神」強調はある面においてラスキンのSeven Lampsの影響が強いことは明らかなので、オカルト文脈でも触れられているだろう、と思った。著者自身もそこの重要性は感じていたらしく、示唆というかたちでそこに触れてはいる。しかしむずがゆい。芸術学校図書目録を調べるのと当時著作の羅列紹介くらいでは何も語ったことにはならない。思わせぶりにそれなりにページを割いているだけに、そのむずがゆさはなおのことである。
しかし、『ごまとゆり』をあげた話、「ラスキン由来のイギリス美学が概説書をとおしてラショードフォンにもたらされた」話などは傍流ではあれ知見になった。

なお、「1917年1月13日、雪のしずかに降るなか、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレはラ=ショー=ド=フォンの鉄道駅に佇んでいた」の出だしまで疑わしくなったものの、注で確認したら、そこは当時記事でウラをとってあるんだあ、と。そのへんは歴史家のヘキ。


※ちゃんとした書評を書くばあい、最初の二行を二〇倍にしなければならないのだろう。
だが、バートレット校のバンハム旒がバンハムへのアンサー・ブックとして書いたと公言している以上、知的エリートの書として上記のような手落ちがあまりにも目につく。
※「結局コルビュジエの神秘主義への関与はわからなかった」ということなのだから、自分であれば史実蓄積の隠喩としてA Mystery constructed: towards the Corbusier's wholeとか題する、、、か。
by g441124 | 2011-02-18 23:40
memo
Corbusier claimed that in the French architectural academism had blown out the "lampes of Verite",in 19__, on attacking the old-fashioned or non-reasonable conception of architecture, but at the same time, in Japan, Ruskin's self Lamps were declared flickering out,---by his own mysticism: and that, the harder he tries to speak of "Truth", the more he becomes a conjurator of irrationalism.
Thus related was Ruskin, in 1937, by Kunijiro Tanaka: and the article 'Fair and Foul in Ruskin's art criticisms' has then appeared, of all places, on "Ruskin Society Magazine".


"A maiden may sing of her lost love,
but a miser cannot sing of his lost money."

Lectures on Art,Lec.III the relation of art to morals,67
by g441124 | 2011-02-18 18:08
カイエもどき
立原道造からラスキン、ラスキンから丹下、ミケランジェロの意識の移行。
まだ数行の言葉にしかならない目的把握感覚を、ここにすこし絞りだしてみよう、、、?
ヒント――?

●立原道造が詩人(ポエット)として胚胎していた建築観、が、浪漫主義でも合理主義でもないところで両者の特性を含んでいた、ということ。(そうしておそらくそれが、原詩人的人間の在り方をかいま見せてくれている、ということ)
ラスキンの受容史通史で知識人の認識のありようを確かめた、ということ
●「イズム」の問題措定ではカタがつかず、おそらく時代把握の事態はさらに混乱する。
あるいはたとえば「ハイデガーのターミノロジーでカーンを語る」愚に陥るのは、上述「知識人の認識のありよう」にはまることと心得なければならない。それはみずからを歴史内存在として意識化すること足りないためにおこる愚である。歴史家は方法において歴史的であってはならない。
これらに対しての方法論的回答は、Seven Lamps of Architectureの訳、および構造分析においてある程度示しえている。
●ポスト・モダンの時代はおそらく、特に日本人建築家の場合はほんとうにすっ飛ばしてよい。
ただし磯崎の担った問題はふたたび取りあげられる必要がある。現実・未来の世界観というよりも、人間のもちうる原・世界観という問題系の上で。

日本人だから西洋的思考伝統が「ない」、ことよりむしろ、西洋的世界観を天稟として有した者が西洋思想を掘り下げるところに戦後建築思想史の重要な点がある。ここで日本人のある者は、一気にその理解の最先端へとすすむ。「西洋人の西洋思想」はそうして、そこでその地理的な優位性を保ちえなくなった。こんにちの状況はそうして、両者ともの尻すぼみである。

●エジプトを「東方」として規定したときの磯崎にはおそらく、内田佐久郎が「近世建築史上の諸問題」というタイトルで引き寄せてみたときのような、岸田日出刀が「バロック」を「精神錯乱」と訳してみたときのような、過去西洋と現代自己の同一化の心情があっただろう。ただしその遠望に志向する精神性は真逆である。磯崎の場合のそれは、ネオプラトニズム的「神―人間」の合一の可能性への希求に後押しされてあっただろう。

●「そこの感情を黙る」ことが、おそらく丹下記述のためのキー概念。
……だから「ミケランジェロ公」はもっとしっかり読まれなければならないのだが――?



補足
呪術的な意味あいの幾何学と、統御能表現のための幾何学はハタ目に同じでも使われる心性はまるで異なる。「知識としてもつものの再現前」と「高次表象により捉えられた把握内容の具現化」とのあいだには、表現の質として無限の隔たりがある。



――ここで断っておかねばならないことは、実験装置などというと、いかにも民衆を実験台としているというふうに誤解されそうであるが、もっと広い意味で、歴史の検証のなかでは個々の建築は大なり小なり実験装置的意味をもっている。逆にいえば、歴史の検証は民衆が行うものだからである、ともいえよう。(丹下健三『人間と建築――デザインおぼえがき』彰国社、1970年9月、44ページ)
――人間が「すべきこと」の「すべき」とは、けだし、心と意志の演習(エクササイズ)のため以外には別段意味などない。その「こと」自体はそうして、何の役にたつわけでもないのである。だからどんな場合であっても、みずからの腕前や精神力を注ぐまでもないなら、その「こと」自体のもつ無くもがなの実用性など、振り捨ててしまっていい。知の示すところと相反する安易を択ぶのも、知のためには別になくともよい道具で不利を蒙るのも、知と知が司るものとの間に邪魔をいれるのも、――永遠には相応しくない。(ラスキン『建築の七燈』、Lamp of Life二四節)
by g441124 | 2011-02-17 21:55
追記
「ラスキンの日記引用の真意をさぐる」からの、17,8世紀審美観→ゴシック観への勉強の展開
ジョン・イブリンの審美観――竺覚暁「建築論辞典」
ジョン・イブリンと崇高観――「ヒストリー・オブ・アイデアズ」
ここでも結節点にsublime概念がある。「衝突として」交わる。
by g441124 | 2011-01-14 01:13
のこり18日
この構想でいけるかどうか。
紙のメモだと矢印がうるさいので、デジタル文字にしてみる。
括弧内英題。

「七燈解体①~⑦」(Tenebrae Anatomicae : mapping Seven Lamps of Architecture)
①「ソリテスのパラドクス:塵からの構築」(dust unto a lump)
  老教師の昔がたり(a folk story by an old recturer)
  ラスキン文体の曖昧(ambiguity in Ruskin's rethoric)
  アート・オブ・エディフィケーション(art of aedification)
  「これが読めるか」(a challanging problem)
  大地より生まれ、(dust to)
  大地に還る(the dust)
  本論の目的(ルビ:ムネラ・プルヴェリス)(Munera Pulveris)
②「ラスキン建築論の"オーソリティ"」("Authority" in Ruskin's thesis)
  フットライト(footsteps, footlights)
  第六の型
  よみとく力(readability)
  近世画家の能力(use of "power" in Modern Painters)
  世界の統御()
  印象で読む(impression on the lamps)
  そこからの連想(association in nature)
③「崇高論異説」(Reasonable Sublime)
  崇高な十分の一を愛するのとは違う(to love a sublime dividend is another)
  崇高の半分(a second sublime)
  クエスチョナブル・シェイプ(questionable shape)
  (  )
  決定的な誤訳(necessary mistranslated)
  テオモルフィスム(Theomorphism)
  真実の燈
④「寄生的数項」(A parasitical essay on the picturesque)
  奇抜(eccentricity)
  ポレミカル・ターミノロジー(polemical terminology)
  ()
  ()
  ラスキンの手落ち
⑤「七燈受容の諸相」(transparent literacy in Ruskinian history)
  ホルトゥス・インクルスス(Hortus Inclusus)
  ()
  ()
  ()
  建築へ(vers l'architecture des sept lampes)
⑥「七燈のアーキテクチャ」(Oblique order of Seven Lamps)
  フェノメナル・トランスパレンシー(phenomenal transparency)
  一度本を閉じる(close the book to contemplate)
  七燈曼荼羅(a mandala revealed)
  英―羅―希(English-Latin-Greek)
  『プラトンの弟子』("a disciple of Plato")
  まだわからない()
⑦「全訳『建築の七燈』」(A full translation of Seven Lamps of Architecture)

ふざけまくろう、と思ったら案の定、書きだしてみると小見出しのギャグがうるさい。
書いていくなかで落ちつけよう。
by g441124 | 2011-01-14 00:32
定義
だから11月上旬まではその勉強の期間、ということにしておこう。

下に挙げたどれかの話題で、プルーストのラスキン論理解すると便利なところねえかな。
タイミング的に、なにか視座のありそうなひらめき。
by g441124 | 2010-10-23 21:33
構想数題
Seven Lamps読解のために
●ラスキンのレトリック論序論――the Ethics of the Dust(『ラ氏被学Ⅱ』摘要)
●"Divine"から、ラスキンの語彙法――ヴァレリー『樹に関する対話』を発端に
「信仰告白」から「建築原理書」への認識の移行を説く。
Divine law not of necessity but of ordinance
の記述の読解を中心とし、ラスキンのデザイン観の要旨をあぶり出す。
一義的には「ルールを決め、決めたルールは守る」ことしか言っていない。
厳しいことを言っているようだが、デザイナーであれば無意識に守っている行為。
ちなみに同様の言及はpowerの段の石積みの項にもあり。
「そして決断したら、日和らないこと。このときには装飾の細かいところがどうであるかなどは、考え込まない」。
                         
●ラスキンのSublime、picturesque
前段をきちんと意味の通るところまで書き、「sublime=崇高」の関数対応を崩していく。
「ふたつの意味をもつ」ことをしっかりと提示し、各所に二択の片方をあてて解釈。
ラスキン文体の曖昧性を、具体的に説明できないか。『曖昧の七つの型』
一般の「sublime=崇高」論もさらう。<<これ勉強不足!!>>
(多分)ラスキンのpicturesque論は国内picturesque論のなかで特異な位置づけをされている。
その持てあまし感に解決を与える、というスタンス。<<これ勉強不足!!>>
建築のなかでは伊東忠太がラスキンのpicturesque論を述べた最初か。

●国際会議のために
三年前に自伝訳中に作っておいたプレーテリタ・グーグルアースを都市論にかすらせ展開か。
コーリン・ロウ『マニエリスムと近代建築』中のラ・トゥーレット巡りの記述とシンプロン峠の記述を比較する。
「ケヴィン・リンチの記譜法でアルプスを都市にしてしまう」案。図を作っておくとよい。
ここまでは自分の知的あそびだが、示したいのは「ラスキンの視覚のノンスケール」。
であれば、建築スケール、アルプススケールのあいだに「都市を見るラスキンの目」がほしい。
あ、そうだ。「ここにグーグルアースでのプロットデータありますよ」も示しておきたい。

●前川の学生時代
「今まで未踏査であった前川の帝大建築学科時代をあぶりだす」基本姿勢。
宮内インタビューの発言をもととする。
・卒論(新史料) 発端とし、クライマックスへ。学生時代の前川人格の形成
・同人誌『Koppa』,『Mokuyo』,『木葉』(新史料・東大建築学科蔵。)前川世話役、翻訳・雑文寄稿。
外遊帰りの岸田の言葉も。
「ラスキン受容史にからめての発見であること」のネタばらしすこし。(←やっとかないと、当時の精神史的事実を語るさいの見方の偏りが疑われる。)「『七燈』のモダニズム的影響」とその後のコルビュジエ受容

そうか……ちゃんとこなせば五本論文が書けるということだ。
「国際会議」は一度先生に相談して11月中に仕上げ、アプライ。
ほかの論文は、皆の修士論文と同時に出す。
by g441124 | 2010-10-23 21:31
これは言ってよさそうな経験則
イギリス思想を難解だというのはだいたいユーモアと可能性認識の欠如による。
by g441124 | 2010-09-30 16:02
たね
●トマス・カーライル『衣服哲学』Philosophy on Cloths
こんなスゴイ本がまた時に埋もれていたという。
これ以後のある幾旒の文学にはたしかに、ここでの思想が息づいている。
この著作の意義がわかる人間がいる、ということがもしかしたら、いまの時代のなんらかの雰囲気の反映なのかもしれない。
例によって明治期以降の受容スジを辿っている御仁たちは真面目に過ぎて同著のフザケをとり逃がしていそうである。sator resartusの題にはひそかに「紺屋のまるはだか」という仮訳題(これは意訳に過ぎるので、正題にはふさわしくない。著者の意図には近いところをいっていそうで、気に入り)をつけて読み進めている。
●パーペンディキュラー様式と現在のビル群のデザイン理論上の合同性について、なにか言えそうな気がする。先に簡単に言ってしまえば「ヴィジョンの浅さを映すデザイン手法の手軽」。ただ、この認識を実体として掴むには同様式のデザインのエッセンスをまず、きちんと理解しなければならない。
デザイン実践の実践的範疇の基礎には、現実への働きかけの可能性にたいする時代感情がある。その無意識らしき心性を明示し得る視座が、そろそろ必要になってきそうである。(「――誰のために?」)

以上二点はまだ無責任な予感だけの着想だが、攻めようによっちゃあ上手いかたちをとりそうではある。
ここのところ最近のインスピレーション源は小田ひで次の一連の漫画。
まだまだ知らないところに、とうとい思想が隠れているのだと確認させられた。

「こ」の感覚をじわじわ温めているような、ひまな日々。
by g441124 | 2010-09-30 16:00
「タイトルは文章を書いている途中にこそ良いものが思い浮か
ぶ。そのタイトルがその文章の全である、ことをその後の筆に伝えて書いてもらう。」
(「途中」ふくむ「最後」)

久しぶりの更新です。
九月、
●博士入学の面接を知らずすっぽかす
●一級建築士一次試験合格
の二事項が手伝い、いま僕の心中は迷子です。
かといって不安ではなく、これは
デザインがはじまる!ことを、この身に享けた時間だと言っていい。
「ヒントをつくる」過程のはじまりのこと。

ただその冒頭、二次試験の製図の勉強に一旦嫌気がきたのでした。
来たるこの試験は東大の国語の二次試験のようなもので、いわば「空間単位を文体にして問題文の内容をA2にまとめる」作業のこと。もちろん、美文を賞翫し、またそれをコンポーズできるようになるためのものとしては、僕はその問いを解くための能力を今後必須のものとみている。
ただ、世の中の大建築の設計が、多くこの問題集の模範解答を「よし」とする基盤のすぐ上で行われているのだとしたら、ひどい。意味のない無駄の多々ある作文程度の空間構成に、おれにならえと威張られても適わない。図面記入事項の勉強のために、そこには我慢をしつつやっているけれども、ちょっと滅入ってくる。こういう設計のような建物を最近武蔵小山の図書館にみたのが、この曰く模範解答が「試験用の設計」以上に設計者の心に影響を及ぼしていることの、証のように思えただけに。

また
●『七燈』訳はすすんでおります。
「この本をラスキンの意図で読めるのは世界中でおれだけだ」という手前勝手な認識も、依然いだいております。むしろ英語圏のやつにこれが分かるはずがない、と。それがために、僕はこの仕事をやり遂げなければならないことになってしまった。これはむしろ、光栄なことです。
inviolability of Divine Law, not of necessity, but of ordinance
たとえばこれ、ここだけ読むと9割9分9厘がおそらく「真逆の」解釈をする。
ヒントとして、この本は徹頭徹尾デザインの理論書だ、ということです。ラスキンの信仰告白などではない、ということが、この本の全体像のやっと見えてきたいま、なんとなく自信をもって言えるようになってきたところです。
ただ当初予定していたよりも時間は相当にかかっています。最初からごく丁寧に訳しているのと、穴あきで訳しているため、その補填が心理的に面倒なのも影響しています。また、図版を揃えたりするためにも、今後さらに作業がでてくることを予感してもいます。



ふるい記事を読みかえしてみると、大学時代の多感であったことに他人事のように驚かされる。
大学院入学前後から今に至る直前期に提起した問題はもう大体解決していて、あとは人のわかるようにまとめるプロセスに入ればよい(ただ、なにか他のことの考えを進めていると、この作業がひどく億劫になる。それでいま、当初予定していたより原稿あげるのが既に半年遅れているのだった)。これらの問題は、言ってみれば当人にとって新しくない。
しかしその前、大学三、四年の好奇心を、いまの僕はまったく新鮮な気持ちで読みかえすことができる。
たとえば「客観性とは『存在論的存在性の存在である』」
を、さらりと言えた当時の認識は、いまとなってはほぼ不知のものとなってしまっている。
ほかの散文にも、当時わたくしは詩人であったのだ、を恥ずかしながらにふり返りつつ。
ただ、この彼の感受性を板につけるための人生修養であるから、その感受性、今の自分にあるのかないのかわかりはしないが、いまことさらに羨ましがったりなどはしない。過去の自分のことなら、詩人であった程度に応じていくらでもそう呼んでやる。彼のことはこのように、ちょっと高みから見ていきたいのです。


たまのたまに読みかえした自分の思考。更新が滞ることによってこれが今後サーバーから消えてしまうのはあまりにも惜しい、ので、今回折りもよいため一筆してみました。
あるいはデータとしてHDDに入れておけばいいのかもしれないけれど、それではなんだか過去を可愛がりすぎているようで。あくまでも存命のブログ上に、更新という形をとってその旨表明することが真に悖らぬ気がしたのでした。
by g441124 | 2010-09-15 00:30